=転載ここから=
さて、一生懸命勉強に励んできたが、いったいこの修士課程というのは何だったのだろうか、とふと思い返す諸君がいるのではないかという気がします。 昨年はこの修了式で、私のかつての教え子であった筑波大学の秋野豊氏の悲劇的な死についてお話ししました。諸君の社会への門出を祝うめでたい式において、人の死について話すのは縁起の良いことではないかも知れません。しかし、人の死に方は同時にその人の生き方を示すものでもあるように思います。今年も人の死についてお話ししたいと思います。それは政治学研究科博士後期課程3年生であった石原信太郎君の死についてです。 実社会に出る人には実社会における活躍を、また大学院博士後期課程に進学する人には研究者としての一層の活躍を期待します。志半ばにして頓挫し、目下のところそのいずれでもない人にも将来における成功を祈ります。
諸君の誰にとっても早稲田大学が心の故郷としてとどまることを祈ります。
修士課程の修了、おめでとうございます。
投稿日 3月27日(月)01時29分
大学院政治学研究科学位記授与式での挨拶
2000年3月25日、午後2時
修士課程の修了、おめでとう。今年度の修士課程修了者は31名でした。そのうち外国からの留学生が6名います。4名は韓国から、2名は中国からです。諸君は早稲田大学大学院において2年、あるいはそれ以上にわたる研鑽を重ねて、本日ここにみごと政治学修士号の栄誉を獲ち得られたのであります。心からお祝いを申し上げます。
その疑問はきわめて正当です。というのは、修士課程は中途半端な期間だからです。学生から社会人となるまでの間の2年ということができますが、学生としては余分な2年間です。同じ社会人となるならこんな無駄な2年間を過ごさずに一足飛びに社会人になった方がよかったと思う諸君がいるに違いありません。他方で、本格的な論文を書くには短すぎる2年間です。こんな短期間で書いた論文にはとうてい満足できない、なぜこんなやり足りないという思いをさせるのかという諸君もいることでしょう。なかには、そのような中途半端さを克服するために、在学中にすでに半ば社会人としての生活をはじめた人がいるかも知れません。他方で、さらに1年、2年留年して自分で納得の行く修士論文を完成させた諸君もいることでしょう。
私はこのように考えております。大学の4年間というのは抽象的なものの考え方を発達させる期間であり、これに対して大学院修士課程の2年間は自分の考えを論理的に定式化することを学ぶ期間だと。
大学の4年間を日本で過ごしても外国で過ごしても同じだと考える人がいるかも知れません。しかし、私は自分が観察した例からどうも違うのではないかと思っています。つまり、外国で過ごすと日本語で抽象的なことを考える能力が著しく停滞するのです。これが高校以下だったらそんなことはありません。もちろん日本語での能力は遅れますが、その分だけ外国語での能力が伸びます。したがって、損得はないのですが、私が注目したいのは人生のこの4年間はそういう時期に当たるということです。したがって、大学の4年間は、いかに遊んだ4年間であったとしても、けっして無駄な4年間ではないというふうに考えております。
これに対して、大学院修士の2年間は自分がふだんなんとなく考えていることをなるべく正確に表現することを学ぶ時期です。つまり論理的に定式化して、第三者に分かるようにすること、客観化することを学ぶ時期です。その過程で自分の考えていることが整理されて、詰まらないものであることが分かったり、逆に貴重なものであることが分かったりしてだんだんと淘汰されて行きます。これがすなわち修士論文執筆の効用であります。「書くことは正確にすることだ」とフランシス・ベーコンがいっておりますが、まさに諸君は大学院修士課程において生まれてはじめて論文らしいものを書いて「正確にする」ことを身につけたのです。それまで頭の中でモヤっとしていたものを少しでもはっきりさせるのに役立ったのであれば、大学院生活は意味があったといえます。
諸君の場合はどうでしょうか。修士論文を書いたらますますモヤっとしてきたという人もいるでしょう。それはたいへん残念です。しかし、モヤっとしているということが分かっただけでも収穫ではないでしょうか。ソクラテスがいっているように、自分が知らないということを知ることこそ、まさに知性というものの働きなのですから。
社会に送り出すのなら何か手に職を与えて送りだしてもらいたかった、という諸君がいるかも知れません。残念ながらこれについては大学院政治学研究科はほとんど役に立ちません。同じ大学院でもたとえば医学研究科とか工学研究科とかは手に職を与えて学生を社会に送り出すところといえましょう。しかし、政治学研究科は政治家を養成するところではありません。そもそも政治の職というのは教えることができないものです。政治学研究科は政治の職を教えるところではなくて、政治について批判的に考える能力をもつ人々を育てるところです。政治学は医学と同じ意味では世に役に立つ学問ではありません。いわば「無用の学」です。しかし、われわれの社会はまさにそのような「無用の学」を修めた人々を必要とする社会であります。その意味ではこの「無用の学」にも用はあるのです。われわれはそれを誇りに思っております。
なお、誤解を避けるために言っておきますが、博士後期課程に進む人は学生に戻るわけではありません。学問という職業に携わることになるわけで、私の言葉で言えばやはり一個の社会人となります。
石原君は今年の1月30日に亡くなりました。彼は学部では行政学の片岡寛光先生のゼミに所属し、大学院では国際政治学の山本武彦先生の研究指導下にありました。私はたまたま彼が修士1年のときに私の授業を履修した関係で、また修士論文の審査の際に私が副査を務めた関係で同君を知ることになりました。
この1月14日の夜、彼はふらっと私の研究室にやってきました。ほとんど半年ぶりでした。顔が真っ青で、この世の人とは思えませんでした。「どうした、お前、幽霊みたいじゃないか」と私は思わず口走ってしまいました。本人はほほえむだけでした。そして、か細い声で「先生、今夜のドクターゼミに出席させてもらえませんか」というのです。私は一も二もなく承諾しました。ゼミの間、彼はじっと黙ってわれわれの討論を聞いておりました。終わったあと、明るい声でゼミ報告のメインメッセージに批判的なコメントを行って、「面白かったです。4月以後も出席させてもらっていいですか」と尋ねました。私はもちろん歓迎すると答えました。
この短い問答が最後になるだろうとは夢にも思いませんでした。それから2週間後に彼は還らぬ人となったのです。こういう巡り合わせで、故人とそれほど親しいわけではなかった私が、政研の教員の中では故人と生前最後に言葉を交わした人間となりました。
石原君は一見ひ弱な優等生風の顔つきをしていました。内田先生によりますと、いつも最前列に座り、まじろぎもせずにひたと教師の顔を見つめて、講義を聞いていたということです。私の大学院の授業でも寸分の隙のない報告を行いました。
しかし、妙な癖がありました。非常におしゃれなのです。いつもばりっとした背広を着込むか、派手な色柄のシャツを着て、首にスカーフを巻き、しばしば金のネックレスかペンダントをつけて、香水の匂いまで漂わせて闊歩していました。持ち物はすべて一流のブランド製品でした。定期入れまでがルイヴィトン製でした。そんなことから私はてっきり大金持ちの道楽息子と勘違いしていました。
また、ゼミなどで発言するときは大いにはにかみ、韜晦してしばしばまともに最後まで言い切ることができませんでした。あれほど完璧な答案やレポートを書くこの学生が、どうしてこんなに自信なげな口振りをするのだろうかといつも不思議に思いました。
昨日、ご両親が亡きご子息の四十九日のご挨拶に来られて、いろいろとうかがいました。石原君はひ弱などでは全くなく、小学校時代、水泳で全校優勝をしたほどの健康優良児だったそうです。大学に入ってからもどちらかといえば太り気味で、ボート部とヨット部に属し、湘南の海岸でウィンドサーフィンをやっていたそうです。
また、優等生などではまったくなく、高校時代は突っ張りで名を馳せた札付きの不良だったそうです。パンクロックのヴォーカルに凝り、髪を茶色に染め、上半身裸で入れ墨シールを貼り、絶叫調で歌いまくったそうです。教師とは喧嘩ばかりして、ほとんど高校に行かず、成績は400人中398番だったというのです。
どうしてそんな彼が大学に入って、とくに専門課程に進んでから優等生風になったのか。学問の魅力に取り憑かれてしまったから、というのが私の推測です。石原君は妥協というもの、中途半端というものを知りませんでした。修士論文は400字詰め原稿用紙換算で470枚という大部のものでした。単に量的に多かっただけではありません。国際政治学のきわめて難解な英語文献を大量に使いこなしていましたが、その分量たるやとても2年間で読んだとは思えないものでした。普通の学生なら4年間はかかったでしょう。母君の語ったところでは、修士論文執筆当時、1日に1時間半しか寝ないでがんばったそうです。
博士後期課程に入ってからは、完全に夜と昼が逆転して、明け方に寝て昼過ぎに起きるという毎日だったとのことです。明らかに勉強のし過ぎで体調を崩しました。しかし、石原君は妥協しませんでした。そのうちに自律神経失調症で入退院を繰り返すようになりました。それでも妥協しませんでした。自分から勉強を取り上げたら何も残らなくなると言い張って、病院に大量の資料とパソコンを持ち込み、病室でつぎつぎと論文を完成させました。わずか2年の間に雑誌『政治公法研究』に4本発表しました。その他に学会誌に寄稿した論文が1つありました。
本人は自分が死ぬ可能性があるということをまったく予想していなかったようです。あくまで好きな勉強をやり、同時に大いに人生を享受するつもりだったようです。昨年の11月末、入院と退院を繰り返していた間の短い自宅療養の日々の一つに、父君と一緒に近くのプールに行って泳いだそうです。父君が200メートルぐらいで疲れて上がったあとも泳ぎ続け、なんと1000メートルも泳いだそうです。今年の1月に入ってから多くの友人に電話をかけ、4月以後のことについて自分の計画を語っています。休学して心理学をやりたい、語学もやりたいということでした。私のドクターゼミにも出たいといっていたことは先にも紹介したとおりです。死の2週間前、私のところから帰った翌々日、彼はなんと宝塚に出かけて少女歌劇を見ています。これが最後の外出となりました。
死の前日も大部の本を読んでいて、中程の頁まで赤い蛍光ペンのマークが入っていました。本人はそれを読み続けようとして、果たさずに世を去ったのです。死後もなお、本人が注文した書籍が大学生協から段ボール箱で2つ届きました。
享年27歳と1ヶ月でした。その死は、父君の話では、突然死か、あるいは過労死だろうということです。
最後に一つ、ぜひともお話ししておきたいことがあります。石原君は早稲田大学の愛校者でした。学部を卒業するとき、東大法学部の大学院も受験し、合格したとのことです。鴨武彦先生に師事する予定だったようです。しかし、いろいろと考えた結果、「僕は早稲田が好きだから、早稲田を選ぶよ」と言って、早稲田に残ったのだそうです。父君はこうおっしゃっていました。「息子は早稲田で人生の三分の一を過ごしました。ここが最高の思い出の場所です」。ほんとうに有り難い、教師冥利に尽きる話です。
短いけれども、まことに凄絶な生涯でした。私が石原君の話を紹介したのは、諸君の中に真剣に学問に生きようとした人間がいたということを知ってもらいたかったからです。私は学問を職業としている人間ですが、恥ずかしいことに学問への志においては石原君の足下にも及ばないと感じています。あといくつ生きるか分かりませんが、少しでも彼に近づきたいものだと念じるばかりです。
学問に限らず、感性や知性の世界は一つの魔性の魅力をもっています。その魅力に石原君の純な魂は取り憑かれたのでしょう。石原君の学問への真摯な態度は学んでいただきたいと思いますが、死に至るほどののめり込み方はお奨めできません。石原君も好きな学問をしながら、精一杯人生を享受したいと考えていました。しかし、バランスの取り方を一つ間違えてしまったような気がします。もう少しバランスのとれた生活をしてくれていたらな、と石原君の両親は嘆息しておられました。諸君のご両親もきっと同感されることでしょう。諸君にはぜひとも石原君の分までも生きてもらいたいものだと願っています。
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